2012年06月01日

三余荘ユースホステルが無くなってしまう! その3

三余荘ユースホステルが無くなってしまう! その3

 土屋宗三郎(三余)は、江戸に出て漢学・国学・算術・剣術に励み、勝海舟と机を並べて勉学し、諸大名に招かれて諸藩の顧問となるほどの名声を得た。しかし、天保10年(1839)。24才のときに突然、故郷帰って、三余荘ユースホステルの場所に無料の塾を開き、親戚や近隣の子弟を預かった。

 理由(わけ)があった。

 当時、奥伊豆は、遠州掛川藩の領地だった。半年交替で陣屋にやってくる掛川藩の役人は、百姓に対して横暴であった。それをみた土屋宗三郎(三余)は、「百姓が掛川の武士に馬鹿にされるのは、百姓に教養が足りないからである」と考えた。
 そこで百姓を相手に無料の塾をはじめた。最初は、親戚の師弟に教えるだけであったが、たちまちその評判が広まり、無料の塾は大繁昌になった。後に依田家十一代の当主になる依田佐二平も入門した。この依田佐二平は、三余塾の塾頭となって大活躍することになる。ペリー来航・プチャーチン来航の時は、土屋宗三郎(三余)は、依田佐二平を引き連れて、外国人たちと交流し、外国語を盛んに学んだ。三余荘ユースホステルには、その時の鉛筆、西洋皿、コップ、ビールなどが残っている。

sanyo-101.JPG

 さて、三余荘ユースホステルのことである。

 三余荘ユースホステルが、ユースホステルになったのは、昭和三十九年であった。農業に励んでいた土屋九彦氏15代目の当主は、本当は、もっと早くユースホステルになりたかったのだが、近くに別のユースホステルがあったために、日本ユースホステル協会から認可されなかった。別のユースホステルとは、依田佐二平の子孫・依田家が経営していた、依田園ホステルであった。

 土屋三余の一番弟子である依田佐二平は、土屋三余の死後、国会議員となって大活躍し、奥伊豆の発展に尽くすことになるのだが、第二次世界大戦後の依田家は、農地改革などで没落する。しかし、没落しても旧家である。大きな屋敷と蔵は残っていた。そこに日本ユースホステル協会を設立した横山祐吉氏が、腰を低くして
「民家を開放し、ユースホステルとして若者を受け入れてくれないか」
と言ってきた。依田家は快諾し、昭和35年に依田園ホステルが誕生した。と同時に、大勢の若者たちが依田園ホステルに訪れた。

 それを知った土屋三余の曾孫にあたる土屋九彦氏(15代目の当主)も、自宅をユースホステルにしたいと思って、日本ユースホステル協会に申請した。しかし却下されてしまった。近所に依田園ホステルがあったからである。

 ちなみに依田家と土屋三余の家は親戚である。
 土屋三余の嫁が依田家の娘なのだ。
 土屋九彦氏(15代目の当主)は、依田家に出向いて
「ユースホステルの看板を譲ってくれ」
とたのんだ。

 依田家は快諾した。

 ユースホステルとして成功した依田家であったが、温泉を掘り当てて、旅館としても大成功をおさめていた。なにしろ建物が古く、文化財的価値があったので旅行者が大勢訪れていた。ユースホステルの御客様にたよらなくてもやっていけるほどになっていた。ちなみに、下記のサイトが、元依田園ホステルであり、今の「大沢温泉ホテル・依田の庄」である。

http://www.osawaonsen.co.jp/index.htm

 こうして三余荘ユースホステルが誕生した。
 大沢温泉ホテル・依田の庄ほどではないが、
 三余荘ユースホステルも古い家であった。
 庭が素晴らしく、部屋が和風であった。

sanyo-113.JPG

sanyo-112.JPG

sanyo-111.JPG

sanyo-110.JPG

 本業は、農家であるために、美味しい米を作ってホステラーに御馳走した。柑橘類(みかん等)もやっていたので、糖度の高いミカンを食事に出した。魚や肉も出したが、何気なく添え物に裏山で採れた山菜を出していた。三余荘ユースホステルの食事は、美味しいことで有名であった。

sanyo-102.JPG

sanyo-103.JPG

 しかし、三余荘ユースホステルの一番の特色は、土屋三余をテーマにしたミーティングである。蔵を改造した土屋三余資料館を興味ある若者たちに見せたりした。そして、土屋三余や依田佐二平の業績を伝えていった。依田家が、土屋家にユースホステルの看板を譲ったのも、土屋九彦氏(15代目の当主)の、そういう情熱を知っていたからかもしれない。

sanyo-105.JPG

sanyo-104.JPG

 土屋九彦氏(15代目の当主)は、そういう活動に半生をかけることになる。
 しかし、今年になって土屋九彦氏(15代目の当主)は高齢のために体調を崩した。
 ギリギリまで頑張ったが、ついにユースホステルの営業を断念せざるをえなくなった。

 実は私は、マネージャーの土屋九彦氏(15代目の当主)にお会いしてない。その息子さん(といっても六十四歳だが)とお会いしている。マネージャー代行の息子さんの馴れないミーティングで、土蔵の土屋三余資料館を案内してもらった。

sanyo-107.JPG

posted by 北軽井沢YGHマネージャー at 21:40| 伊豆半島のユースホステル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三余荘ユースホステルが無くなってしまう! その2

三余荘ユースホステルが無くなってしまう! その2

sanyo-89.JPG

 三余荘ユースホステルを語る前に、奥伊豆の偉人・依田佐二平について述べたい。

 依田氏は、平安時代末期に信濃源氏の一族として、信州・小県郡依田之庄、今の長野 県小県郡丸子町に、依田城を築いた。その城こそ木曽の義仲が旗揚げした所であった。しかし義仲が、やがて源頼朝によって破られると、義仲に組し依田一族も各地に逃れ散っていった。時代は下って、南北朝初期に依田義胤が、再びこの依田之庄に来て城を築いた。彼こそが伊豆大沢の依田家の先祖と伝えられている。

 戦国時代、武田信玄は、依田一族を従えて、依田一族は武功を挙げていった。しかし武田家が滅亡すると、依田家は遠く奥伊豆・大沢の地に落ちのびていった。そこで帰農する。依田家はしだいに実力を蓄えて地域の名主となる。天城山の山林開発・薪炭生産によって材をなした。

 そして、依田家十一代の当主・依田佐二平の時に、時代は大きく変わり、依田佐二平が、奥伊豆の発展に大活躍するのである。今でも奥伊豆では、依田家や依田佐二平を知らぬ者はいない。いたらモグリである。明治維新に例えれば、依田佐二平は、伊豆の伊藤博文みたいな人である。しかし、依田佐二平が、伊豆の伊藤博文みたいな人ならば、伊豆の吉田松陰と言うべき人もいる。

 土屋宗三郎(三余)である。

 土屋宗三郎(三余)こそは、奥伊豆の吉田松陰なのだ。

 土屋宗三郎(三余)は、文化12年(1815)伊豆国那賀郡中村、現在の三余荘ユースホステルに生まれた。祖先は北条氏に仕えたが、秀吉の小田原城攻めに敗れ、天正18年(1590)伊豆の那賀に移り住み10ヶ村の名主をつとめた。土屋宗三郎(三余)はその12代目にあたる。

 しかし、彼は、6才で父を、8才で母を亡くして孤児となった。彼は母の実家に引き取られて学問に励んだ。そして勉学のため江戸に出て、漢学・国学・算術・剣術に励み、勝海舟と机を並べて勉学し、諸大名に招かれて諸藩の顧問となるほどの名声を得た。

sanyo-03.JPG

 しかし、天保10年(1839)。24才のときに突然、故郷帰って、三余荘ユースホステルの場所に無料の塾を開き、親戚や近隣の子弟を預かった。

 理由(わけ)があった。

 当時、奥伊豆は、遠州掛川藩の領地だった。半年交替で陣屋にやってくる掛川藩の役人は、百姓に対して横暴であった。百姓たちが、この掛川侍に苦しめられるありさまを見ながら土屋宗三郎(三余)は、

「人間は、みな平等である。しかし、百姓が掛川の武士に馬鹿にされるのは、百姓に教養が足りないからである」

と考えた。そこで身分の差別をなくすため百姓(注・百姓とは、武士以外の人たちのことをさす。必ずしも農民とはかぎらない)の青少年を教育し、知徳を磨くことによって、武士に馬鹿にされないようにしなければならないと考えて、無料の塾をはじめた。

 最初は、親戚の師弟に教えるだけであったが、
 たちまちその評判が広まり、無料の塾は大繁昌になった。
 塾は全寮制であった。
 みんな生活をともにした。
 そして、そこから無数の人材が出た。
 その数は、萩の松下村塾にも劣らない。
 (ちなみに塾は土屋宗三郎(三余)の死によって7年で終わっている)

 こうして江戸時代のユースホステルがはじまった。三余荘ユースホステルは、日本ユースホステル協会が設立される前からユースホステルのような活動をしていたのである。

 結婚の話もきた。
 依田家から嫁をもらった。
 美代子といった。

 もちろん依田家からも、多くの門人が入門した。後に依田家十一代の当主になる依田佐二平も入門した。この依田佐二平は、三余塾の塾頭となって大活躍することになる。ペリー来航・プチャーチン来航の時は、土屋宗三郎(三余)は、依田佐二平を引き連れて、外国人たちと交流し、外国語を盛んに学んだ。三余荘ユースホステルには、その時の鉛筆、西洋皿、コップ、ビールなどが残っている。

sanyo-02.JPG

 さて、三余荘ユースホステルのことである。

 三余荘ユースホステルが、ユースホステルになったのは、昭和三十九年であった。農業に励んでいた土屋九彦氏15代目の当主は、本当は、もっと早くユースホステルになりたかったのだが、近くに別のユースホステルがあったために、日本ユースホステル協会から認可されなかった。別のユースホステルとは、依田佐二平の子孫・依田家が経営していた、依田園ホステルであった。

sanyo-01.JPG

sanyo-05.JPG

このシリーズ、つづく。
posted by 北軽井沢YGHマネージャー at 08:06| 伊豆半島のユースホステル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三余荘ユースホステルが、5月末で無くなってしまう!

三余荘ユースホステルが、5月末で無くなってしまう!
と聞いて、絶対に泊まらなければと思っていた。
このユースホステルは、知る人ぞ知るユースホステルだからだ。

sanyo-84.JPG

しかし、5月に入ってから北軽井沢ブルーベリーYGHには、毎日のように御客様が入っていた。群馬県には、ユースホステルが3軒あるが、他の2軒は、よく休館するので、どうしても平日は、うちに泊まりに来る御客様が多い。そのために三余荘ユースホステルに泊まりに行きたくても泊まれなかった。

ところが、奇跡的に、5月28日と29日には、御客様が入ってなかった。
で、急遽、休館して、西伊豆に出かけることにした。
三余荘ユースホステルに泊まりに!

sanyo-83.JPG

sanyo-86.JPG

sanyo-87.JPG

sanyo-85.JPG

sanyo-88.JPG

sanyo-91.JPG

sanyo-92.JPG

三余荘ユースホステルは、知る人ぞ知るユースホステルである。ユースホステルのヘビーユーザーなら、その凄さを知らぬ者はいないが、実は、歴史オタクにとっても、北海道帯広オタクにとっても三余塾を知らない者はいない。

それについては、後日、ゆっくり、ここで紹介するとして、
明日は、三余荘ユースホステル営業ラストデーである。
最近、うちに泊まりに来た御客様には、こっそり伝えているが、
実は、今日の今日まで、このブログで公開して良いものか迷っていた。
今回、三余荘ユースホステルに泊まって許可をとったので、ここに書く。

明日が、5月31日が、三余荘ユースホステルの最後の営業日である!
泊まれる人は、ぜひ、泊まりに行って欲しい。

三余荘ユースホステルのマネージャーは、淋しそうに

「北軽井沢ブルーベリーYGHさんが、おそらく最後の御客様です」

とおっしゃっていた。
しかし、そうでないことを祈りたい。

sanyo-89.JPG

sanyo-90.JPG



つづく。
posted by 北軽井沢YGHマネージャー at 08:06| 伊豆半島のユースホステル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。